保守の辞典 西部邁
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進歩主義(合理性によって改善され、完成へと向かう)と対立する。保守主義は合理性には尤もらしい前提が必要で、それは経験の中にしかないと考える 時の試練(本書では「時効による処方」と表現されているが、近い意味だと思う)を重要だとみなすのは、人間の認識と社会の制度をオーガニック(有機的)な生長物ととらえるのと同義 進歩主義で浸った現代がなんとか保っているのが、螺旋構造で”持続”を招き寄せているからだ 慣習は国民精神の実体で良習/悪習の区別するべし。伝統とは国民共有のフォーム(形式)。 言葉は実体であると同時に、グラマー(文体)の形式でもある。この実体と形式の融合体が与えられたシチュエーション(状況)のなかで効果的に機能する場合のことをさして「良き言葉づかい」と呼ぶ。伝統の基本は「状況に応じた良き言葉づかい」のことである。 いろんな国に「王政復古」の革命があったことからも察しられるように、保守派はかならずしも変化を忌避するのではない。(p28) だが「新たな革命」あるいは「近代的な革命」はかならずや挫折し崩落していく。なぜといって、そうした革命を率先したりそれに追随したりする者たちの知性は、主として専門主義のせいで、細分化され断片化されているからである。彼らの徳性とても、自分らの内面にわだかまる欲望や意見や行為の葛藤を秩序づける価値・規範の根本的な規準を欠いているため、フリードリヒ・ニーチェのいった「三つのM」に、つまりモーメント(瞬間)とムード(気分)とマイヌング(意見)によって差配され、ついにはマテリアル(物質)とマーケット(市場)とマモン(富の神)の「三つのm」に縮退していく。(p32) 合理的・全体的な設計をしようとする政府への反発、自発的に形成されてくる秩序は許容する、という点において無政府主義と似ている 理性―「狂人とは理性以外のすべてを失った人のこと」 未解題
どんな実践も、人間の場合、言葉によって編成される。したがって実践における平衡への実践の中心には、言葉の(状況に応じた)適切な紡ぎ方にかんする経験にもとづいた、活力、公正・節度の保たれたスタイル(文体)というものがある。なぜそうみなしてさしつかえないか。それにたいする厳密に合理的な証明は不可能であろうが、失関症、失感症そして合理症の深みにはまらずに何とかかんとか生きている、という生の実践およびその経験の深い実感があるかぎり、われわれの言語活動は「平衝のとれたスタイル」からそう遠くは隔たっていない、と得心してもょい。 そうした深い実感を得るためには、人は「スペシ」ャリストでありつづけることはできない。能力の及ぶかぎり、パー「スペクテ」ィヴィズムつまり「物事のかかわり方を広く展望する態度」をもって生の実践を繰り広げるなかで、自分がスタイルの名に値するものを体得し把握しつつあるとの実感」に近づける。逆にいうと、専門人の実感主義くらい下品で野蛮なものはない。それは物事のア「スペクト」(単一の側面)にこだわることをもって合理だと称し、その単一側面に自分の心身をあずける狂気の実感なのだ。
私かいいたいのは教養主義の必要ということなんかではない。それも少しは必要だといっておいてもよいが、真に必要なのは、物語(=歴史)と合理とを生の実践のなかで総合すべく、スタイルへの模索を続けることである。そしてその持続の経験に学ぶことである。かつてコモンマンは、物体の多面多層を執拗に撫でたり削ったりする職人のスタイルにおいて典型的にみられたように、無自覚の展望主義者でありえていた。今は、活字や電波によって広告されるせせこましい専門知の諸断片が合理症者の群れの手に渡り、それが人間の生のスタイルを打ち酔く斧となって振り降ろされている。(p68-69)